鹿児島県南九州市の特攻平和記念館を訪れて!
墓石建立の墓地確認に鹿児島まで来ました。
私がサラリーマンだった頃、どれくらいでしょうか?35年以上になりますかね?この地を慰安旅行で、訪れたことがあります。
沢山の墓石を建てさせて頂き、沢山の方の想いに触れたからでしょうか?
鹿児島に行くなら、もう一度訪問してみたいと思ったのでした。
73年前、太平洋戦争の末期、沖縄戦において、1000人以上の特攻隊員が、航空機に爆弾を積んだままに、敵の艦船に体当たりをするという、命の尊厳など全く無視をされた作戦が行われて、お亡くなりにました。
陸軍200人以上の、将来ある若い飛行機乗りが、ハヤブサで出撃したここ知覧の地に、記念館が建てられています。
館内、沢山の遺影の下には、お母さまから送られた手紙や特攻隊員自身の遺書が展示してあります。
前回は団体行動ではありましたが、私はあの時何を観て、何を感じて来たのかと思いました。
遺書を何行も読み進んでいないのに、目頭があつくなり文字が滲んで見えなくなりました。
着た切り雀の作業服で、ハンカチなんて気の利いたものを持参していません。
展示ケースを濡らさない様に、上着の袖で、こぼれて出る物を拭いていました。
とうとう作業着から手ぬぐいを出そうとした時、鼻をススル音が聞こえてきました。
隣では、若い男性が指で目じりを拭きながら、遺書を読んでおいででした。
館内を見渡せば、戦争を知らないはずの年齢の方が、何名も泣いていらっしゃいます。
死と向き合い、想い、気遣い、感謝、願い等が綴ってある最後の手紙です。
出撃したら帰ってこない人が、遺された言葉に、何も感じない方はいないのでは無いですよね!
いつ出撃の命令が下るのか分からないのに、さぞかし「怖いだろうな!」と感じますが、手紙に想いを書きまとめるには、「これで伝わるだろうか?」「これでいいのか?」と何度も考えて、正直な気持ちを書いた文章なのでしょう。
私は戦争を知りません!分からないままに、いい年のジイサンが、感じたまま泣いて来ました。
一礼をして館を後にしましたが、戦死された方の御霊が、安らかならんことをお祈りいたします。
時代は違いますが、旅立って行かれる方、見送る方の想いや願いは、今も同じではないかと思います。
今回の知覧訪問を終えて、改めて自分のしている仕事は、尊い想いの対象を安置する場所である事、故人とご遺族の想いの場所をつくらせて頂いている仕事だという事を心にとどめます。
『正直に!』を忘れない様!
久しぶりにマジなブログにしてしまいました。帰って来て間もなく記憶に新しいので、何か書かずにいられませんでした。
いいお墓をつくりたい方の想いに、どこまでお応えできるか分かりませんが、地域やご予算の大小に関わらず対応させて頂きます。
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